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焼き魚の薫漂う秋の静けさの中で自分の弱みをうつらうつらと書いてみた。

秋も深まってまいりましたが、みなさんいかがお過ごしですか?

 

秋はいろんな物事に例えられる季節です。

 

だんだん年の瀬に近づいていくこの感覚が毎回モノ悲しくもあり哀愁漂うというか、緩やかに心が落ち着いてくる様が秋の季節らしくて好きです。

 

僕は心の底で人とコミュニケーション取るのが好きではないのかもしれないと思います。

 

コミュ障といえばそれまでかもしれないですが、コミュ障にしては何だかいつまでも心の奥底で素の自分がわからないし、昔から人と居ても楽しくないし楽しませてあげられないことをずっと悩んでいました。

 

なぜ楽しくない楽しませられないという考え方になってるのかといえば、人といると何を喋ろうかとか頭の中で考えてしまうからです。

 

黙ってても面白い人って世の中に入るかもしれません。とにかく"面白い"人は周りから好かれるし友達も多いです。

 

次に相手から好かれる人です。自分が相手のことを好きかどうかは置いておいて、相手から気に入られる人も羨ましいですね。

 

人に好かれる部分ってのは得手して素が面白い部分だと思います。最初は距離感があるけど時折垣間見える素の部分がクスッと笑えると人は他者から気に入られます。

 

一緒の話をして同じポイントで笑うとかでもOKだと思います。

 

また、喜怒哀楽が他者と被ると一体感というか共感というかフィーリングあった感じがしてその人と仲良くなれたりもするものです。

 

人ってなんだかんだ心で感じたままに動いているので、共感できる存在が一人いるだけでですよ、たった一人いるだけでも世界は明るくなるし生きてる心地がするわけです。

 

これは理屈では無く、互いに”惹き合う”という感覚がまさにそれなのかもしれません。

 

その点で言えば、僕はこれまであまり人と心から仲良くなれたことはありません。

 

少なくとも自分ではそう感じていますし、この感覚は間違ってはいないと思います。

 

思春期の頃は不登校も経験して精神疾患になる予兆は感じていましたし、人と話をするときにはいつまでも壁がある感じがしてました。いつまでも他人行儀で一向に仲良くなれないのを察知されて相手のほうから避けられるのが怖かったことが何回もありました。

 

だから最初から喋らないとか、深くは関わらないとか防衛反応が出ました。少なくとも自分の感覚ではそのように感じながら人間関係をしてきました。

 

そもそも相手から距離を置かれやすい体質なのか、相手が写鏡になってて無意識に自分から避けてるのがわかるようになってるのか、明確な因果関係は不明ですが

 

このことがバレると黒歴史にもなるかもしれないし余計に人間関係が希薄になるかもしれないから内心恥ずかしいこととしてこれまでも人に言わないようにしてきました。

 

そして、こういうことが日常茶飯事だと、ある時から、自分はそもそも人間的な心のつながりは求めていないのかな、共感力が備わってないのかな、最初からそういう機能が備わってない仕様なのかなと思ってしまいます。

 

実際にもう少し深く調べてみると、占いや心理学でも一定数一匹狼もいるらしいとかいう結論に辿り着きます。(諸説あり。ただ単に拒否られ心が傷つきまくった結果、他者との関わり裂けている部分も往々にしてある)

 

他者と群れたがらない、共感性が低めな孤独人間。自分のことかと思っちゃいます。正直な話、人と仲良くなりたい気持ちと誰にも縛られずに喋りたい人と喋りたいときにだけ、心を開きたい分だけ、心の距離感ATフィールドを発動させながらコミュニケーションとりたい気持ちがあります。

 

現実感覚が薄い、具体性に欠ける、言い方はいくつかあると思いますが、”頭の中で明確に物事のシナリオが書けない病”みたいな感じです。

 

いわゆる解離性障害とか統合失調症とか診断されるレベルだと思いますが、話の着地点の以前に、

 

他者との共感の結目、つなぎ目、ジョイント部分、そして自分自身の心の目が見開いてない

 

だから明確な色形で物事を見切れていない感覚です。(まさに今文章を書きながらそう思いました)

 

人同士の心が結びつくのは”磁力によってなんとなく”なので、その磁力が弱いと一匹狼になるのがわかりやすい例えだと思います。

 

事務連絡はできるので会話自体は成り立つけど、「人との会話に入れない」「みんなの話についていけない」「話してても楽しくない・楽しくなさそう」

 

そうなるのも心磁力が弱いから。

 

精神的な強さや肉体的な強靭さは関係ないはずです。

 

まさかこれがスピリチュアル?魂的なもの?

 

最悪、人間ほど高尚で高機能な存在ともなれば、共感性がないTribe(種族)も存在価値があるし無用の長物のように、まさしく”あっても役に立たないもの”ということはどこまでいっても完全にはあり得ないのかな、とも思うんけど、どうかな?

 

機能主義的に見れば、言われるように共感ってそういうことじゃん。(どういうこと?)

 

おっと、とりあえず共感の話は心理学的にも深掘りされてるので話を広げていきたいのだけれどもこの続きはまた今度。。。

 

いつも突然話を切るのもADHDというかアスペというか心のジョイントができてない感があるよね。

 

ではまたね、チャオチャオ👋